宗教への献金は、のめりこんで資産を失うと言う所から、似たようなものを考えると、パチンコ、競馬がある。これらは、今の所自己責任の割合は強い。もっとも、これらもギャンブル依存症のように病気と考えられる場合もある。これらについて規制等の有効な対策を打つことは求められるだろう。
一方、宗教における献金については洗脳を行って巨額を出させる、さらに行き過ぎた手法が取られている場合があることが分かっている。生活にも困るほどに何百万、何千万の献金をさせる、これは明らかに異常である。ギャンブルとは別の事象が発生しているのである。催眠商法と似たことが行われている。催眠商法は法律で取り締まられている。よって、これも法律で同様に取り締まることが可能なのではないか。
そもそも宗教にそんな巨額の献金が必要だろうか。根本の原動力は単なる経済活動として資本を集めているだけである。金があれば思い通りになんでもできる。その上の仕掛けとして、宗教の価値を表すための方法としてお金を設定し、その額を競うようにしている。たちが悪いのが信者を不幸にしてもそれは宗教のためになっているのだから幸福、みたいな反転した理論を当然としていることである。
統一教会は聖書の「ヤコブの勝利」の一部を独特の曲解をしている。話の冒頭で、ヤコブの兄が自己中心的だったので、目の見えない父が長子の特権を兄に与える時に母がヤコブを行かせてヤコブに特権を与えさせた、この件を「兄になりすまし、財産をだまし取った」とし、最終的には兄とも和解する話なので、「父親についた嘘は神の知恵だったと解釈し、ヤコブを勝利者として称え、人を騙しても神に祝福される」と説いたのである。「嘘をついての募金はおかしい」と訴えると「ヤコブの勝利を思い出せ。神の知恵なんだ」と言われるのである。ヤコブが真面目なので硬直した制度を違えてでもと言う話が、ヤコブが騙したと言う話になっているのだから酷い話である。基本原理が人を騙して良いとなっているのだからただの反社である。
例えば、献金は年間で収入あるいは資産の1%まで、のような規制が良いのではないか。本来の宗教は巨額の献金を必要としないし、信者も生活に支障が出ない範囲でやっていけるのだから、こんな良い方法はないと思う。信者が壊れたり、訴えられない方が宗教側にも本当はメリットのはずで、それを自分で制御できないと言うのだから制度で保護してあげた方が良いだろう。巨額の献金でいろんな問題を起こすことが宗教の自由ではない。宗教が弾圧されないことが宗教の自由である。問題を起こせば宗教が弾圧される理由ができる。問題が起きないようにすることこそが宗教の自由である。