「千の風になって」はおかしな歌だと思う。世の中におかしな歌はいっぱいあるが、なんだかとても流行ったことになっているらしいので、それはちょっとおかしいのではないかと言う思いで書く。
まず、そもそも風を千と言う数詞で表現することがおかしい。原語が「thousand winds」だからと言ってそのまま直訳とは。数の多さを言いたければ「億万の」とか、「幾千」のとかもっと良いのがあると思うが、それをタイトルにまでしてしまうのは意図的に特異な感じを出したかったのだろうか。また、少し前に発表されて当時の日本歴代興行収入第1位となった「千と千尋の神隠し」と同じ「千」は特に当時の人々の意識には強くあったと思うので、作者が意識的だったかどうかは知らないがその印象はかなり影響したのではないだろうか。
次に内容が、死者が一人語りするというのが特異である。生きている動物が語るとかならまだしも死んでしまった人が明確に語ると言うのはあまりないのではないか。ここにいくつか異常性と矛盾がみられて来る。
まず、冒頭言っていることが思い出とかではなく、死後の現在時的な話でまさに今見ている感じで墓の前で泣かないでくれと言っている。しかもその理由は「そんなに悲しまないで」と元気付けたいとかではなく、そこに自分がいないから、と言うのである。だいぶサイコパスな感じでズレた感じが怖すぎる。絶対にまずは、自分がそこにいるとかいないとかではなく、言いたかったこと言えなかったことなど感情がまっさきに来るのではないか。そうでなければまさにこの世にもうその人はいないのではないか。死んだ人は神になったから人間のようなことは言わない、と言うことなのだろうか。そんなことを人々は聞きたいだろうか。こんな歌が本当に流行るのだろうか?
もう一つ問題なのは、墓に祈っても無駄と半ば馬鹿にした感じの言説を明確に行っていると言うことである。墓を作り墓に祈ると言うことで死者を弔うと言う約束で成り立っている文化に対して、墓に祈るなと言っているのである。人々は墓に祈るのだからそれを死者は聞いてあげる、そういう約束で墓を建てている、にもかかわらずそれを真っ先に全否定する歌なのである。もしそうならば、そもそもこの歌自体が成り立たないのではないのだろうか。なぜなら、これだけ一般的に墓を作るのをやってしまっているのに墓を介して弔えないとするならば、そもそも死者にコンタクトは取れていない(取れているのならばこんな間違いはしない)、つまり死者は存在しない、よって死者は歌も歌わない、この歌はまったくの絵空事、と言うことになるのではないか。
墓の前にいるのが見えているのに、そこに行って弔いを聞こうとはしないのか。風は自由が利かないのか、風なのに?千もあるのに?だから墓の前で泣くなと?だったら人々は今までずっとこんなに大量になんのために墓を建てているんだ。仮に墓に死者がいないからと言って墓の前で悲しむことをなぜ否定するのか、墓の前だろうがなんだろうが泣いていると思うのだがそれを否定するのか。そこにいないと泣いてはいけないのか?
それとも単に偶像崇拝が許せないということを歌ったのだろうか。だとすると一気に宗教闘争性を帯びたきな臭さも出てくる。
このように矛盾と異常性があると考えられてまったく共感も尊敬もできないのである。なぜこんな歌が流行ったことになっているのだろうか。不思議で仕方ない。