魏志倭人伝を読んでみた。
まず、韓国を出て対馬国(対馬)、対馬から一大国(壱岐)、壱岐から末廬(まつろ)国(松浦)、とそれぞれ海を千余里渡る、とある。Googleマップ上で見ると、港から港でそれぞれ約64km、61km、44kmとなっており、千余里と言う表現がアバウトに表現したものなのだろうが、それでもだいたい同じ距離となっている。そもそも海なのでこんなもので良いのだろう。松浦が末廬国で合っているのかも、九州への最短コースなのでまあ間違いないのではないだろうか。
次に、「東南陸行五百里到伊都国」とある。この伊都国を糸島のあたり、とする説が有力らしいのだが、糸島は「東」にありどうにも「東南」とするのがおかしい。五百里も前出の千余里の半分なので、30kmくらいのはずなのである。わざわざ「陸行」と書いてあるので、これは松浦から東南に陸を進んで30kmあたりと解釈すべきだろう。だとすると伊万里になるのではないだろうか。
次に、「東南至奴国百里」とある。これを伊万里から東南と考えると、該当しそうな場所が見当たらない。また、「百里」も移動距離と考えるとおかしい。前出のように五百里が約30kmと考えると、百里は6kmで、そんな近くにあるのか?となる。実は魏志倭人伝内で対馬の広さについて四方が四百余里、また壱岐は三百里と言及されており、それと比べても百里を移動距離とするのはどうにもおかしい。また「陸行」とも書かれてないので、これは広さなのではないだろうか。つまり、伊都国からの行程ではなく、松浦から東南方面に奴国と言う広さ百里ほどの国がある、と言うことなのではないだろうか。魏志倭人伝内に戸数が2万とあるので、それなりの地域とすると、熊本なのではないかと思われる。
次に「東行至不彌国百里」これも同じく、松浦から東方面にあり、戸数は1000なのだが、それでもそれなりの地域なのではないかと思われるので、不彌国は福岡なのではないだろうか。
次に「南至投馬国水行二十日」、そして「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」とある。南の方角に「水行」つまり海を行くと20日かかる所に投馬国がある、また邪馬壹国も南の方角にあって、海を行くと10日、陸を行くなら1ヵ月、と言うことだろう。つまり、邪馬壹国は海路と陸路があって、投馬国は基本的には海路しかなく、邪馬壹国は投馬国に行く中間地点のあたりにあるのである。なんで距離ではなく日にち表現になったのかは行った人が距離の分からない人でその人から聞いたかららしい。では何日で何km進めるのかは、いろんなサイトを閲覧させていただいたところ、陸行1ヵ月1500里、最初の海の時千里約60kmなので、その1.5倍の100kmが邪馬壹国、200kmが投馬国となる。と言うことは、邪馬壹国が長崎、投馬国が鹿児島なのではないかと思われる。
魏志倭人伝の解釈はいろいろあるようだが、前提として、基本的に書いてあることに大きな間違いはないと考えるべきだろう。だとすれば、文章の解釈に間違いがあると考えるべきである。いくらなんでも方角が大きく歪められるはずがないと考えるべきだと思う。素直に読めば、九州を南へ移動する流れと、倭国を俯瞰した説明が見えて来る、そう思います。